涼宮ハルヒの消失について考えてみた。

以後、鑑賞の楽しさを大きく損なうネタバレを含みます。
映画館で見る気のある人は読まない方がいいです絶対。
















さて。
考えたことが二つ。
一つ目は、映画にする意味があったのか?ということ。
十分な予算と時間でいい作品が出来たらそれで良いじゃん、と思うのだけれど。
でも、にしてはアニメとして違和感のある部分もあって。
背景、写実的だなおい!明らかにアニメらしい背景と写真トレースの背景があって違和感がありあり。そっちの世界は写実的でこっちの世界はアニメ的、なんて演出なのかとも考えてたけど違ってた。
あと、キャラをもっと動かしませんか?落ち着いたストーリーだし違和感なく動いてるけれども、映画版ならそれらしく大盤振る舞いで無駄に動くシーンが幾つかあってもいいんじゃないの、と思うくらい作画が頑張るシーンが少ない。ハルヒの表情が変化するシーンと、終盤の朝倉絡みのシーン、世界を歪ませるシーン。そこは良かったけれど。というかオープニングよ、もっと頑張れよ。
映画館で見れて良かったと思えたのは、音楽とフラッシュの演出。これらは家などでは表現のインパクトが相当弱まるはず。
デカい画面でクライマックスを見てたら興奮しますよそりゃ。
ということで、映画として見せるなら絵に問題があるのは駄目なんではないかと。
信者から金を効率良く絞る方法としての映画化は別に文句ないけども、ならもうちょっと詰めようぜ、と。


そして、自問自答のシーンについて。
エヴァじゃん!匂わせる演出かと思ったらモロに走ったよ!画面に声なし文字だけ(明朝体ではなかったけど)で自分の言葉を示した後に自分が何回も語りかけてきて言い訳をするも自分に打ち負ける、っておい!背景真っ白で無機質な物が沢山ある中で自分だけが立ってる、っておい!
っていう既視感たっぷりのシーンのあと、自分が自分を踏み倒し、踏まれながらも踏ん張って立ち上がる自分、そして意志が固まりそのシークエンスが終わる。っていうのはなにかい?過去の作品を踏み越えた上でこの作品が存在していく、っていう意思表明か?そのくせ作品の中で最も強くメッセージを表したシーンがソレっていうのはどうなの?オリジナリティーはありなの?
第0話やエンドレスエイトや、そもそもテレビシリーズ全体で涼宮ハルヒというアニメは半ば前衛に近い奇抜なアプローチをしながらもエンターテイメントに仕上げていくのが凄いと思っていたのに、映画ではパクるというのに留まっておりオリジナリティーを示さずに終わったのはがっかりした。


エンターテイメントとしては勿論凄く良かったです。